永井紙店

永井紙店の歴史

広島の生活文化とともに歩んだ「永井紙店」

戦国時代 ~江戸時代 滋賀県長浜市にて紙問屋を創業。浅野家と合流して紀州和歌山へ移り、
浅野藩御用達として、米と紙を扱い、名字帯刀を許される。
明治10年 浅野様より直々に 「これからの時代は洋紙を扱うように」 との仰せがあり、和祇と共に洋紙の卸問屋となる。
明治30年頃 現在の銀山町に、広島で初の活版印刷所を開業し、終戦まで、市役所、県庁、中国電力をはじめ、第五師団や呉海軍工廠など、広島県、山口県、島根県の主要都市の紙屋や印刷屋に、貨荷物列車にて大量の洋紙を卸す。
明治35年頃 紙問屋と活版印刷所を営む傍ら、現在の銀山町に祖々父・永井幸兵衛が株支店を開業。昭和十六年に幸兵衛が89歳で亡くなるまで営業を続け、全国取引所会員として表彰される。

▲祖々父・永井幸兵衛
和紙と洋紙を扱う、現在の永井紙店の基礎を築いた祖々父・幸兵衛。

▲祖父・永井林太郎
広島の財界の中心人物として当時東京の浅草、 大阪の道頓堀にも匹敵した「新天地」の開場に力を尽くした。

大正10年頃 新天地に祖父・永井林太郎が「新天地株式会社」を設立。芝居小屋の「新天座」や映画館の「映画倶楽部」(映画倶楽部は、大正十三年には泰平館になり、昭和五年には帝国座、昭和十五年には帝国劇場と名を変えた)など、東京の浅草や大阪の道頓堀に匹敵する数多くの娯楽施設を経営。昭和二十二年に戦後はじめての映画館として再興した帝劇会館(大映映画)を昭和四十六年に閉館するまで、広島の興行界において最古の興行権を所有した。また、大相撲の勧進元として、広島での本場所(戟後は準場所となる)の開催にも力を尽くし'現在の社会人野球の走りである永井野球倶楽部を設立するなど、市民の娯楽であったスポーツ界にも責献する。
昭和初期 活版印刷業においては、福屋百貨店の包装紙の印刷を開業と同時に一手に引き受ける。また、NHK広島放送局の開局や日本赤十字病院の開院に際し寄付援助を行う。
昭和21年 本通りにて、和洋紙や結納品などの小売を主体に営業。
昭和58年 「株式会社永井紙店」を設立。「有限会社永井パーキング」を設立。
昭和61年 管理会社として「有限会社リパップ永井」を設立し、永井紙店ビル「REPAP」を新築竣工。
平成2年 アルパーク天満屋店に結納コーナー開設。
平成5年 アルパーク天満屋店にラッピングコーナー開設。

▲昭和20年代の永井紙店
木造の店舗は、1階の売り場の奥が自宅だった。店の向かって左側、中の棚に通じる道は、当時は人と自転車しか通れないほど狭かった。

▲昭和22年4月・永井紙店の地鎮祭
本通の現在の土地に建築資材が不足の中新店舗を建設。当時の町名は「本通」でなはく「平田屋町」だった。

▲戦後4代目の永井紙店
昭和56年に改築した戦後4代目の店舗は、朱赤を基調として総ガラス張りの店舗となり、非常にクリアなイメージの店舗だったので、当時話題になりました。

▲昭和61年オープン当時のREPAPビル(永井紙店ビル)
「紙とのコミュニケーション」をコンセプトに、戦後5代目の店舗であるREPAP(リパップ)をオープン。

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